木村花選手が先日、亡くなりました。
現実としては信じがたく、唐突な状況に未だ心が追いついていない気もします。
関係者の方々や親族の皆さまを想うと、言葉になりません。
偉大なレスラーの為に”言葉”で伝えたいこと...
今回の件は記事にすべきではないと考えておりました。
それは、どんな解釈で文字に起こしても答えのない言葉では意味の為さない1人遊びになってしまうからです。
そして木村花選手の命をここで語ることは私がすることではないと理解しています。
しかし、一方で木村花選手を忘れてはいけない。
今回の事件を含めて、無にしないために、
私たちが負うべき責任には目を向けていかなければならないと強く思いました。
メディアに飛び交う「誹謗中傷」
・誹謗中傷はいけない。
・相手を傷つけてはいけない。
・言葉は凶器になる。
多分みんな理解しています。
なのにこの記事を書いてる今も、この記事を見てる今も「誹謗中傷」の書き込みは減っていません。
何故なのでしょうか。
誤った正義感が時として、言葉が凶器になっていることを私たちは気づかなければならない。
その凶器が届きやすい現代の環境では尚更にです。
批判を正当化して、正義化する。そして言葉にする。その正義感が強くなって、自然発生的に誹謗中傷として凶器になっています。
批判と誹謗中傷の生命線に気づけないと、それはナイフの扱い方を間違えてるテロリストと同じです。
誹謗中傷と批判の生命線
人格を否定するような稚拙な罵詈雑言は間違いなく相手を傷つけます。
しかし「批判」も顔の見えないネットでは、受け取り方次第で相手の心を非情に傷つけることもあります。
こんなブログにでさえ送ってくる方々もいます。
私が言葉を紡ぐ人間として気をつけている事は、取り上げる相手への尊敬です。
批判的な意見を述べることも時として重要です。
その一方で、違う側面でみる相手への理解も必要だと思っています。
思い返すと、書く上で理路整然にそれができていたかと言われると完璧ではなかったと感じております。
相手の事を想える発言でないならば、それは言葉にしていけないのかもしれません。
今一度考え続けなければならないと思います。
今後、この事件をきっかけに法改正や学校教育に生かされていくことを、そして元より一人一人の人間としての向き合い方が変わることを願っています。
今回の事件で誹謗中傷していた人物を特定しようとしたり、罵詈雑言を投げかけている動きがあります。
犯人に対して腹立たしく、無念をぶつけたい気持ちもめちゃくちゃわかります。
ただ裁くことは私たちの成すべき行動ではありません。
再び考えていきましょう。
その言葉は相手を想うメッセージですか?
正義感から研がれたナイフですか?
最後に
今から何を発信しても意味はありません。
ただ、
某番組によって誹謗中傷が集まっていたことは知っていました。
団体を応援するファンなら知っていたと思います。
昨日の朝上げた記事は前々から書いていたものです。
→ 【女子プロレス界の逸材・木村花 選手の魅力について語ります!!】
クソみたいなコメントに溺れそうな気がしていた木村花選手に、少しでも良い内容を届けたいという気持ちで。
遅すぎましたね。
溺れていたことに気づくべきでした。
そもそも私が語るべきことではありませんが、
ただリアルタイムで一連を見届けることしかできなかったので…
・・・
結局何が言いたいかっていうと、
「いつかまた、木村花選手の華やかな入場が見られる日を楽しみにしています。どうか安らかに。」